はじめに
「生きてるだけでえらい」「生きているだけですごい」
本やSNSで、これまで何度も目にしてきた言葉です。
優しさに満ちた言葉のはずなのに私に届くのは優しさではなく、しっくりこない苦しさでした。
言葉自体が持つ意味と、心が感じるものがずれてしまう事は多々あります。
つらい時に寄り添ってくれて、ありのままの私達を認めてくれる言葉のはずですが、
私にとっては心に暗い影と不安を残す言葉でもありました。
何もできなかった日の夜、静かに過ぎていく時間の中でふと1日の反省会をしてしまう。
「生きているだけでは足りない」「今日も私は進むことができなかった」
この記事は、そんな感覚とそれでも居場所を見つけた過程について綴った小さな記録です。
「生きてるだけでえらい」では救われなかった
心やメンタルに強い弱いという言葉を使いたくはないけど、私は心があまり強い方ではありません。
多くの制作に携わる中で周りと比べてしまったり、
忙しさからスケジュール管理ができなかったり、
日々募っていく不安や焦燥に追い詰められて鬱になってしまう事もありました。
何もできなかった日。誰ともかかわらず、ただ時間が過ぎてしまった夜。
そんな状態の自分を「生きているだけでえらい」なんて評価さる事がかえって苦しく感じてしまうのです。
これは制作だけに当てはまる事じゃありません。
お仕事でも勉強でも闘病でも、それぞれが過ごしている人生にも言えることだと思います。
「生きているだけ」という基準の難しさ
「えらい」という言葉はなかなか厄介な意味を孕んでいます。
誰かと誰かを比べて優れていることに対して使われたり、過去の自分とくらべて成長していることに使われたり、無意識的に何かと何かを比較して使われてしまいがちな言葉です。
そんな性質だからこそ、「えらい」と言われるためには何かしらの”行動”や”成果”が必要だと、
私達はどこかで思い込んでいたのかもしれません。
何かをした自分、誰かに認められた自分。
そういった「条件つきの価値」に慣れてしまうと、
ただ生きているだけでは、足りないと感じるようになってしまうんです。
ただ存在しているだけの自分が、肯定されることに違和感がうまれ、
褒められているのになぜか申し訳なさと不安が残ってしまう…
少なくとも、私にはそんな感覚がつきまとうことがあります。
XやSNSのタイムラインには日々何かを成し遂げている人たちが並んでいます。
スクロールすれば目立つ投稿には数値化されたいいねや誉め言葉、だれかの頑張りが
どうしても目に入ってしまうものです。
手軽に皆と繋がれる反面なにもできなかった私の空虚感が、
静かにでも確実に、心に重さを増していきました。
そんなとき「生きてるだけでえらい」という言葉は、
励ます事ばではなく、”がんばれなかった自分”を見つめ直させる言葉になり、
余計にそこから立ち直るのを難しくしていました。
逃げ場ではなく、居場所になっていったVRChat
現実の生活がうまくいかない時期に出会ったのがVRChatでした。
厳密にはうっすら知ってはいたのですが、撫でという文化を見て気になって始めました…
私は無言勢(VRChat内を無言で遊ぶ人)で人見知りという事もあり、最初は人と話すこともできず
ただワールドを巡って風景を見てまわるだけの日が続きました。
Xや撫で文化に触れあう事で次第に友達が増え、名前も顔も知らない人とただ同じ時間を過ごすことが、こんなにも心をゆるめるものなのかと驚きました。
VRChatの中では、名前も年齢も顔も肩書きも関係ない。
深夜静かなワールドの中で座っていると、誰かがふと隣に来て何も聞かずにただ一緒に過ごしてくれたり、沈んだ気分の私を、元気がでるようにと綺麗なワールドに連れて行ってもらったり、
その時間に、はっきりとした意味はなかったかもしれません。
けれど、息がつまって上手に呼吸ができないなか、不思議と安心して呼吸がしやすくなりました。
“何者でもない自分”でいられる時間…
ただそこにいても許される感覚…
そこは”逃げ先”ではなく、そこにいてよかったと思えるような”安心できる居場所”でした。
ことばより、実感が心を暖めてくれた
「生きてるだけでえらい」という言葉は、きっと元々はとても優しいものだと思います。
ただ、それを受け取る心の準備が整っていなければ、その優しさにすら傷ついてしまう言葉でもあるんだと思います…
正しいはずの言葉が、なぜか胸に重くのしかかってくることもあります。
無理に感謝しようとしなくても、納得しようとしなくてもきっと大丈夫です!
言葉に追いつけない自分を、責める必要はないって思うんです。
大事なのは、そうした言葉から逃げる場所じゃなくて、少しだけ呼吸を整えられる場所を見つけておくこと…
わたしにとってのVRChatは、そんな場所のひとつです!
誰かと話すわけでもなく、ただ風景を眺めたり、知らない誰かと並んで座ったりする時間…
「生きてていい」と直接言われたわけではないけれど、そんな言葉よりも私の心をゆるめてくれた大切な時間です。
優しい言葉は、時に遠く感じてしまいます。
でも、共有できる時間や場所、黙ってそばにいてくれる誰かの存在は、驚くほど静かにこちらに届くことがあるんです…!
「ここにいてもいい」と思えるその感覚は、たったひとつの正解の言葉よりもずっと心に深く沁みていきます…
自分を大切にしていいと感じられる瞬間は、いつも理屈の外側にあるんですね…
私がそこに居て良いように、そこにいる皆にも居てほしい…
あなたがここに居て、私は嬉しい!って気持ちは間違ってないはずです!
おしまい
「生きてるだけでえらい」という言葉が、どうしても届かない日がある。
この文章もまた、「救いの言葉」にはなれないかもしれません。
けど、自分と同じように「うまく受け取れなかった人」がいたなら、その存在を静かに肯定したくて私は記事を書いています…!
上手く受け取れなくても、自分を責める必要はありません。
生きていることさえ重たく感じる日も、何もできなかったと感じる夜も、たったそれだけで失敗ではないんです。
言葉で救われなくても、誰かとの接点やほんの一瞬の安心が心を支えてくれます。
それに苦しくて辛くて、そんな今日を生き延びたあなたは立ち止まってなんかないんです!
ゆっくり、例え足踏みと変わらない距離でも進み続けているんですよ。
現実でも、バーチャルでも。
ただ“そこに居ていい”と感じられる場所があるだけで、人は少しだけ生きやすくなります…
言葉は届かなくても、体験やぬくもりが、別のかたちで心をほどいてくれます。
私の言葉があなたの心を少しでも緩められる存在になれますように…
こんな考え方もあるんだなって、ちょっとでも思ってくれたら私はうれしいです!
コメント